台湾にある飛行場の多くが 日本統治時代に建設されたものである。日清戦争後 清から台湾を割譲した大日本帝国は、当初台湾の統治に相当苦労したが 学校建設など教育の基礎ベースから日本化を進め 台湾を次第に文明地域に変貌させようとした。それまで 清でさせ台湾のコントロールには苦労していたのであるから 日本が苦労するのは当然であった。しかし 朝鮮のように今までの文化を完全に否定した形で日本化を進め反発を買った事に比べ 台湾の場合は文明そのものがまだまだ開花していない未開の地であったがために 日本の文明を受け入れやすい白紙の状態からのスタートだった。それは 当時の日本帝国の海外統治の中で最も成功した事例となったが その為今でも台湾の人々の日本に対する印象は、良好なのである。台湾を50年間統治している間に航空機の発達も進み 軍事利用も盛んになってきた為 日本は台湾の様々な地域に飛行場を建設した。桃園陸軍飛行場もその一つで 台湾防空や中国大陸への物資輸送の中継基地として使われたようだ。太平洋戦争末期は、陸軍の双発戦闘機屠龍の基地として 飛行第21戦隊がここをベースとして 沖縄に上陸した米軍の攻撃や特攻の基地として使われている。当時の陸軍飛行場が正確には何処にあったか不明であるが 桃園空軍基地と並行する中正国際飛行場のこのあたりに位置したことは 間違いないようで この飛行場をベースに戦後米軍が飛行場の近代化を進め さらに 台湾の政府のよる近代化に拡大改良により現在に至る。
Insignia of 5th AG
Northern Taxi Way in Taoyuan Air Base
Control Tawer of Taoyuan AB
第5大隊
U
5th AIR GROUP
The Period of F-5E/F -2
Wings
-
私は台湾に駐在していた期間、1982年に一度だけF-5Eを撮影に桃園基地に行った事があった。その時は、現地社長の車を運転手ごとお借りして お客さんの空港までの迎えを兼ねた撮影行だったが、高速道路の脇に車を止めてもらい、訓練から戻って来たF-5を捕らえようと待ち構えてが、予想していた着陸ポイントを外し、証拠写真程度しか撮れなかった。1990年代に入り今度は友人のMM君と再びリベンジに向かった。空軍基地の位置さえ大凡判れば撮影ポイントを探し出すことは、我々マニアにとってそれ程難しいことではない。しかし桃園基地の北側のポイントは、水田を中心とした農地であったが、木々に覆われた丘陵が複雑に入り組んでいた為 大体の撮影位置が予想できてもジャストポイントを知るには、実際に着陸する機体を確認しなければ無理であった。台湾の戦闘機部隊は特に夏場、暑い日中のフライトを避け夕方にフライトを集中させることが多かった為、我々は暑い中それとも知らずに戦闘機のお帰りを待っていたのだ。日が傾き始めた頃、漸くランディングライトを視認し興奮しながら予想位置に立って撮影をしようとしたら1機目はほとんど真上を通過してい行った。距離を取ろうとすれば木々に邪魔され、急に木々の間から飛び出てくるスピードのあるF-5を捕らえきらず、大敗を記してしまった。初戦の大敗を悔やむ私はそれ以後 何度も桃園に通ってF-5を充分堪能するまで撮り続けた。
桃園空軍基地(Taoyuan Air Base)のランウェイは、およそ10000ft(3350m)もある。海軍航空隊が使うのにはもったいないぐらいの長さなのだ。ここには冷戦初期U-2の部隊が常駐しており、その後RF-101やRF-104Gが配備されたので空軍も相当整備に力を入れてきた基地の一つと言える。ランウェイの沿って並んだコンクリートシェルターは、60個以上で大陸からの攻撃に備えた国内1級の基地であり、大陸の中国空軍のパイロットもこの基地を亡命の目標として数回飛来している。
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考えて見れば台湾で最初に戦闘機を見たのも桃園空軍基地。最初にF-5Eを撮影したのも桃園基地である。今現在は、この基地から戦闘機が消えて5年が経つ何と現在は海軍の航空基地になっているようだが、私が本格的に台湾空軍機を撮影し始めた1990年代初めの頃は、24機編成のF-5E/Fの飛行隊が3つも有り、盛んに飛行訓練を行っていた。次第に拡大する国際空港との空路の調整が難しいことから訓練に制限が多く 5年も戦闘機部隊が不在となっているが、最近F-16部隊の一部を桃園基地に配備する動きが出てきたようなので、再び活気のある基地に戻る可能性も出てきた。(2007/5/27 記)